เข้าสู่ระบบあれだけ「明日必要なものはあるか」と念入りに確認していたくせに、翌日の篠宮君は、私が予想していなかったものを忘れてきた。
昼休みになってすぐ、私は購買へ向かおうとしている彼を呼び止めたのだけれど、昨日までのように生徒証の使い方がわからないわけではなく、今日はちゃんとチャージまで済ませてきたらしく、それを少し得意そうに見せてきたから、思わず「小学生が初めて一人で買い物できたみたいな顔しないで」と笑ってしまった。
「そんな顔はしていない」
「してたよ。ほら、俺は今日はちゃんとできます、みたいな」
「昨日教えてもらったから、同じ間違いを繰り返さないようにしただけだ」
「偉い偉い」
「子供扱いするな」
「でも、シャープペンシルをどこで買うか知らなくて、メロンパンの買い方も知らなくて、借りた百六十円に利息を付けようとした人でしょう?」
「……その件は、もう忘れてくれていい」
「無理。面白すぎるから」
私が笑うと、篠宮君は露骨に嫌そうな顔をしたのだけれど、以前みたいに黙り込むことはなくなっていて、その変化が少しだけ嬉しかった。
転校してきてまだ三日。
たった三日しか経っていないのに、私はもう彼が本当に怒っている時と、ただ困っている時と、何となく言い返したいけれど言葉が見つからない時の違いがわかるようになっていた。
もともと表情が豊かな人ではないから、知らない人から見れば全部同じ無愛想な顔に見えるのだろうけれど、隣の席から一日中眺めていると案外わかってしまうもので、本人に言ったら嫌がりそうだから黙っておくことにしている。
「それで、今日は何を買うの?」
「昼食だ」
「それはわかる。パン?」
「昨日のメロンパンをもう一度食べようと思う」
「気に入ったんだ」
「あれは美味しかった」
ものすごく真面目な顔で言うから、私はまた笑ってしまった。
「なんか篠宮君って、高級レストランで育った人が初めて庶民の食べ物を知ったみたいな反応するよね」
ほんの冗談だった。
ところが彼は、一瞬だけ固まった。
「……そうか?」
「そうだよ。昨日のメロンパンだって、一口食べてからしばらく袋見てたじゃん」
「原材料を確認していただけだ」
「何のために?」
「どういう配合なのか興味があった」
「メロンパン食べる時に配合考える高校生、初めて見た」
「高梨は考えないのか?」
「考えないよ。甘い、美味しい、カロリー怖い、終わり」
「合理的だな」
「それ褒めてる?」
「褒めている」
「なんか腹立つなあ」
そんなことを言いながら二人で廊下へ出たところで、美咲が後ろから飛びつくように私の腕へ絡んできた。
「お二人さん、今日も仲良く購買デートですか?」
「違います。食料調達です」
「同じようなもんじゃん」
「全然違うよ」
「篠宮君はどう思います?」
突然振られた彼は、少し考えたあと、本気で意味がわからなかったらしく私を見る。
「購買デートとは?」
「美咲、余計な言葉教えなくていいから」
「いやいや大事でしょう。ほら、好きな男女が二人で購買に行ってパン買うだけでも、本人たちがそういう気分だったらデートになるの」
「なら、違う」
即答だった。
別に傷つく理由なんてない。
私だって違うと言ったのだから。
それなのに、あまりにも迷いなく言われたものだから、胸のどこかがほんの少しだけ引っかかり、そんな自分が気持ち悪くて私はわざと明るく笑った。
「ほら、本人もこう言ってるし」
「えー、つまんない」
美咲が離れていこうとした時だった。
篠宮君が、その背中へ向かって付け足した。
「俺は高梨に、そういう意味で一緒に出かけようと言ったことがないから、今日は違うという意味だ」
美咲が止まる。
私も止まった。
「……篠宮君」
「何だ?」
「今の言い方だとさ」
美咲がゆっくり振り返り、ものすごく楽しそうな顔をした。
「そのうち、そういう意味で誘う可能性はあります、って聞こえるけど?」
「そうなのか?」
「私に聞かないでよ」
「日本語は難しいな」
「今のは日本語の問題じゃないから!」
私の声が廊下に響き、何人かの生徒が振り返る。
篠宮君は本当にわかっていないらしく、少し首を傾げただけだった。
腹が立つ。
いや、何に腹を立てているのか自分でもよくわからない。
こういうところが、人間は面倒なのだ。
三日前まで名前すら知らなかった男子の一言で、気持ちが上がったり下がったりするなんて、馬鹿みたいだと思う。
結局、その日の昼食は私も購買でサンドイッチを買い、篠宮君は宣言どおりメロンパンと牛乳を買った。
ところが教室へ戻ってから、彼は私の机を見て何かに気づいたらしく、しばらく手元の袋と私を交互に見ていた。
「高梨」
「何?」
「それだけか?」
「何が?」
「昼食」
私の机にあるのは、卵サンドと紙パックの紅茶だけだ。
「そうだけど」
「足りるのか?」
「今日はね。家帰ったらケーキの試作品食べるかもしれないし」
「ケーキ?」
食いつく場所、そこなんだ。
「うち、洋菓子屋なの。お母さんと叔父さんがやってる小さい店だけど」
「高梨の家が?」
「正確には家の一階がお店で、私たちはその上に住んでる。だから新作作ると、味見係にされるの」
「毎日ケーキを食べるのか?」
「毎日じゃないって。そんな生活してたら制服入らなくなるよ」
「店はどこにある?」
聞かれて、私は少し驚いた。
「学校から歩いて十五分くらい。駅とは逆方向だけど」
「一般客も入れる?」
「洋菓子屋なんだから入れるよ。何だと思ってるの?」
「いや、知人だけに売る店なのかと思った」
「そんな商売成立しないでしょう。……もしかして甘いもの好き?」
「嫌いではない」
また妙な言い方をする。
「好きなら好きって言えばいいのに」
「好きだ」
「素直だね」
「高梨が言えと言った」
「そうだけどさ」
篠宮君はしばらくメロンパンを見たあと、何でもないことのように尋ねた。
「今日、行ってもいいか?」
「うちの店に?」
「ああ」
「別にいいけど……篠宮君、家遠くないの?」
「迎えが来るから問題ない」
私はパンを口へ入れようとした手を止めた。
「迎え?」
「あ」
わかりやすかった。
ものすごくわかりやすかった。
「誰が?」
「家の人間」
「また家の人間」
「ああ」
「毎日迎えに来るの?」
「……場合による」
「昨日も?」
「来た」
「一昨日も?」
「来た」
「それを普通は『毎日迎えに来る』って言うんじゃない?」
「まだ二日だから、毎日と断定するには標本数が少ない」
「数学みたいに言わないで」
本人は逃げ切ったつもりなのかもしれないけれど、絶対何かある。
ただ、前にも「今は話せない」と言っていたから、そこを無理に掘り返す気にはなれなかった。
誰にだって事情はあるし、私だって聞かれたくないことの一つや二つくらいある。
「まあいいや。じゃあ、放課後一緒に行く?」
「いいのか?」
「行き方わからないでしょう?」
「住所を聞けば調べられる」
「それでもいいけど、どうせ私も帰るんだから」
「……そうか」
それだけだった。
けれど、彼はそのあとメロンパンを食べながら、ほんの少し機嫌が良さそうに見えた。
そして放課後。
学校を出て商店街のほうへ歩きながら、私は早くも篠宮君を連れてきたことを少し後悔していた。
原因は本人ではない。
学校というのは、誰と誰が一緒に帰ったという程度のことでも、驚くほど早く噂になる場所だからだ。
「ねえ、ちょっと離れて歩かない?」
「なぜ?」
「なんか見られてるから」
「誰に?」
「いちいち探さなくていいの!」
篠宮君が本当に周囲を見回そうとしたので、私は慌てて制服の袖をつかんだ。
その瞬間、彼が足を止める。
「……何?」
「いや」
「何よ」
「高梨から触ってきたのは初めてだと思っただけだ」
言われて、慌てて手を離した。
「袖でしょうが!」
「袖でも俺の服だ」
「うるさいなあ、もう!」
絶対この人、三日前より喋るようになっている。
しかも妙なところだけ。
「篠宮君って、最初は無口な人かと思ってたけど、慣れると結構面倒くさいよね」
「高梨にだけは言われたくない」
「何それ」
「自分で言っていただろう。人間は面倒だと」
「言ったけど、だからって私が面倒な人間だと認めたわけじゃないから」
「自覚がないほうが問題では?」
「今日ケーキ売るのやめようかな」
「それは困る」
食い気味だったので吹き出した。
「やっぱり甘いもの好きじゃん」
「好きだと言った」
「そうだった」
笑いながら歩いているうちに学校の生徒は少なくなり、駅前とは反対側の古い商店街へ入る。
昔ながらの八百屋とクリーニング店、その隣には最近できたカフェがあって、少し先にうちの店の小さなクリーム色の看板が見えてきた。
店の名前は『パティスリー・ソレイユ』。
父がまだいた頃に付けた名前だ。
今でも看板はそのまま使っている。
「ここ」
私が指差すと、篠宮君は店の前で立ち止まり、しばらく看板とショーウィンドウを眺めていた。
「思っていたより小さいだろうけど――」
「綺麗だ」
「え?」
「店が。外から見ても手入れされているし、商品が見える高さも考えてある。看板も古いが、塗り直しているだろう」
そんなところを見る人、初めてだった。
「……よくわかったね。看板、去年お母さんと私で塗り直した」
「そうなのか」
「普通はケーキ見ない?」
「見ている」
「じゃあ難しい顔しないでよ。店の経営診断に来た人みたいだから」
「そんなつもりはない」
「冗談」
ドアを開けると、焼き菓子とバターの甘い匂いが一気に漂ってきた。
「ただいまー」
「おかえ――」
カウンターの向こうから顔を出した母が、私の後ろにいる篠宮君を見た瞬間、声を止めた。
母、高梨由美子、四十三歳。
人の恋愛事情へ首を突っ込むことを生きがいの一つにしている非常に面倒な人物である。
その目が、私と篠宮君を順番に見た。
嫌な予感しかしない。
「紗季」
「何」
「そちらの男の子は?」
「転校生。うちのケーキ見たいっていうから連れてきただけ」
「ふうん」
「何、その顔」
「別に?」
絶対別にじゃない。
声が一段高い。
「初めまして」
篠宮君が頭を下げた。
「篠宮蓮です。高梨さんには学校で大変お世話になっています」
言葉遣いまで急に変わった。
母の眉が上がる。
私も上がった。
「何その挨拶。就職面接?」
「失礼だったか?」
「逆、丁寧すぎるの」
すると母は、営業用のにこやかな笑顔のまま、
「まあまあ、紗季がお友達を連れてくるなんて珍しいから、どうぞゆっくりしていってね。篠宮君、甘いものは好き?」
と聞いた。
「はい。今日、高梨さんからこちらのお店の話を聞いて、ぜひ食べてみたいと思いました」
「まあ」
母の目が輝いた。
やめて。
お願いだから、その「まあ」に余計な意味を入れないで。
「篠宮君、私のこと学校では高梨って呼んでるでしょう。急に高梨さんとか言わなくていいから」
「お母様の前だから」
「お母様って!」
母が口元を押さえている。
絶対笑ってる。
「篠宮君、普通に『お母さん』でいいよ。というか、そこまで改まらなくていい」
「わかった」
「紗季」
母が私を呼んだ。
「何」
「いい子じゃない」
「何の審査してるのよ」
「別に?」
その「別に」は、絶対別にではない。
私はエプロンを取りに奥へ逃げようとしたのだけれど、その前に母が篠宮君をショーケースへ案内し始めた。
「今日は苺のショート、ガトーショコラ、チーズケーキ、季節限定のオレンジタルト、それから紗季が昨日味見した新作のキャラメルムースもありますよ」
「全部一つずつください」
母が止まった。
私も止まった。
「全部?」
「はい」
「篠宮君、何人家族なの?」
「家族で食べるわけではない」
「じゃあ誰が食べるの?」
「俺が」
「無理だよ!」
私は奥へ行きかけた足を戻した。
「ケーキ五個あるよ? 焼き菓子も入れたらもっとあるし」
「一度に食べる必要はないだろう」
「生菓子だから日持ちしないの。今日中か、遅くても明日まで」
「なら問題ない」
「どんな胃してるのよ」
「量としては大したことはない」
母が楽しそうに笑い始めた。
「紗季、いいじゃない。若い男の子なんだから食べるわよ」
「いや、食べる男子高校生でもケーキ五個は違うと思う」
「俺は食べられる」
「張り合わなくていいから」
「張り合ってはいない」
「じゃあなんで全部買おうとするの?」
聞くと、篠宮君は少し困った顔をしてショーケースを見た。
「一つ選ぶ基準がわからない」
「好きなの選べばいいじゃん」
「どれが好きか、食べていないからわからない」
「だからって全部買う?」
「それが一番確実だろう」
私は額を押さえた。
こういうところだ。
この人は、普通の高校生なら悩んで一個選ぶところを、何の抵抗もなく全部選ぼうとする。
単なる世間知らずなのか、それとも本当に金銭感覚がおかしいのか。
「じゃあ私が選んであげる。初めてならショートケーキ」
「なぜ?」
「うちの店で一番昔からあるから。スポンジもクリームも毎日作ってるし、苺もちゃんとその日の状態で選んでる。店の味を知りたいなら、それが一番いいと思う」
「高梨はそれが好きなのか?」
「私は……ガトーショコラかな」
「では、それも」
「一個にしなさいって」
「二つなら食べられる」
「問題そこじゃないから」
母がとうとう声を立てて笑った。
「じゃあ二個にしてあげなさいよ。男の子なんだから」
「お母さんは売上増えるからそう言ってるだけでしょう」
「商売ですもの」
「正直すぎる」
「でもね、紗季、お客様が買いたいって言ってるのに店員が止めるのも変でしょう?」
「それはそうだけど」
「では、二つください」
篠宮君は本当に嬉しそうだった。
ほんの少し。
誰が見てもわからないくらいの小さな変化だったけれど、私はもう気づく。
「あ、今嬉しかったでしょう」
「何が?」
「二個買えること」
「……悪いか?」
「悪くないけど、そんなにケーキ好きなら最初から言えばいいのに」
「こういう店で買ったことがほとんどない」
思いがけない言葉だった。
母も手を止める。
「海外にもケーキ屋さんはあるでしょう?」
母が聞くと、篠宮君は少し考え、
「用意されたものを食べることはありましたが、自分で店へ来て選んだことは、たぶんありません」
と答えた。
その言葉が、妙に寂しく聞こえた。
高校生になるまで、ケーキ屋で自分の好きなケーキを選んだことがない。
それって、どんな生活なのだろう。
お金がなかったのかと思ったけれど、彼の言動を見ていると、むしろ逆のような気もする。
母も何か感じたらしく、いつもの余計なおしゃべりをやめて、柔らかい声になった。
「だったら今日はゆっくり選んでいいのよ。お店が空いてる時間だから、誰にも急かされないし」
「……ありがとうございます」
結局、ショートケーキとガトーショコラを一個ずつ箱に入れ、そのほかに母が「初来店サービス」と言って小さなフィナンシェを一つ付けた。
篠宮君は財布を出した。
そこで私は、見てはいけないものを見た気がした。
黒い革の財布そのものも高校生が持つには妙に上品だったのだけれど、中に入っている紙幣が、きれいに揃った一万円札ばかりだった。
「……篠宮君」
「何?」
「細かいお金持ってないの?」
「あ」
またその顔。
母が金額を告げる。
千円少々。
篠宮君が差し出したのは、一万円札。
「これで」
母は普通に受け取ろうとしたが、私は止めた。
「昨日学んだでしょう!?」
「何を?」
「小銭!」
「昨日百六十円は用意した」
「今日使う分は?」
「考えていなかった」
「だから買い物する時は小さいお金も――いや、もういい。お母さん、お釣りある?」
「あるわよ。紗季、あなたお客さんの財布の中身にまで口出ししないの」
「だって!」
「いいじゃない、一万円札くらい」
「そうだけど、この人、百六十円のためだけに新品みたいな小銭用意してきた人なんだよ?」
母が篠宮君を見る。
篠宮君が私を見る。
数秒後、母が吹き出した。
「篠宮君、あなた面白い子ねえ」
「よくわかりません」
「大丈夫。そのうち紗季が全部教えてくれるから」
「お母さん!」
「だってもう教えてるじゃない」
言われると否定しにくい。
その時、店の奥から叔父の浩二が出てきて、「紗季、誰だそのでかい男」と余計なことを言い、さらに話が面倒になった。
「転校生」
「彼氏?」
「違う!」
私が叫ぶ。
叔父が「そんな必死に否定しなくても」と笑う。
篠宮君は隣で真面目な顔をして、
「現在は違います」
と言った。
店内が静かになった。
「……現在は?」
私が聞き返す。
「今は違うという意味だ」
「だから、その言い方やめて!」
母がカウンターへ突っ伏して笑い、叔父は「お前、面白いな」と篠宮君の背中を叩き、当の本人だけが何を間違えたのかわからない顔をしていた。
私は恥ずかしくてその場から消えたかった。
けれど、その騒がしさの中で篠宮君が戸惑いながらも少し笑っているのを見て、まあいいかとも思った。
家族というのは面倒だ。
勝手に人の恋愛を決めつけるし、余計なことを聞くし、本人が隠したいことまで平気で口にする。
それでも、こういうくだらないことで笑い合える場所が、私は嫌いではない。
篠宮君は、そんな私たちを少し眩しそうに見ていた。
しばらくして帰る時間になり、私は店の外まで彼を見送った。
「方向どっち?」
「少し歩けば迎えが来る」
「また迎え?」
「ああ」
「じゃあ途中まで行こうか?」
「店を手伝うんだろう?」
「そうだけど」
「ここでいい」
そう言ってから、彼はケーキの箱を大切そうに持ち直した。
「今日はありがとう」
「お客さんにお礼言われるのはこっちだけど」
「それだけじゃない」
「じゃあ何?」
少し黙った。
「……楽しかった」
その言葉が、あまりにも素直だったので、私は返事に困った。
篠宮君は普段、感情をそのまま口にするのが上手な人ではない。
だからこそ、たったそれだけの言葉が妙に胸へ残る。
「そっか」
やっとそれだけ言う。
「また来れば?」
「いいのか?」
「お客さんならね」
「客でなければ?」
「え?」
「いや、何でもない」
「何それ」
「また明日」
彼は逃げるように歩き出した。
変な人。
私は小さく笑いながら店へ戻った。
だから知らなかった。
篠宮君――九条蓮司が商店街を抜け、人気のない通りへ入ったところで、一台の黒い高級車が静かに寄ってきたことを。
後部座席のドアが開き、彼が乗り込む。
「お帰りなさいませ、蓮司様」
「ただいま」
以前なら返さなかったその言葉を、今日は自然に返していた。
助手席の男が少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
「そちらは?」
「ケーキだ」
「見ればわかりますが……蓮司様がご自身で?」
「ああ」
「ホテルのパティシエにご用意させれば――」
「これは違う」
即答だった。
「何が違うのでしょうか」
蓮は膝の上の小さな箱を見た。
クリーム色の箱。
店の名前が書かれた、どこにでもありそうな紙箱。
世界的ホテルグループの最上階で出されるデザートなら、彼は子供の頃から数え切れないほど食べてきた。
有名なパティシエが自分だけのために作った菓子も、誕生日に何段ものケーキを用意されたこともある。
それなのに。
今日、小さなショーケースの前で「どれにしよう」と迷った時間のほうが、不思議なくらい心に残っていた。
「俺が選んだ」
蓮は言った。
「高梨と」
助手席の男はしばらく黙ったあと、少しだけ笑った。
「さようでございますか」
「何だ」
「いいえ」
「今、笑っただろう」
「気のせいでございます」
「嘘をつけ」
車が走り出す。
数分後、蓮は箱の横に置かれていた小さな紙袋に気づいた。
母親が付けてくれたフィナンシェだ。
袋には手書きで、
『初来店ありがとう。また来てね』
と書かれている。
蓮はその文字を長いこと見つめていた。
また来てね。
それだけの言葉だった。
九条家では、彼がどこへ行くかはいつも予定表で決められていた。
何時に起き、誰と会い、どこで食事をし、何を学び、何時に戻るのか。
必要だから行く。
呼ばれたから行く。
行かなければならないから行く。
だから、「また来て」と言われた場所へ、自分が行きたいから行くという感覚を、彼はほとんど知らなかった。
「……明日も行っていいと思うか?」
唐突に聞かれ、助手席の男が振り返った。
「ケーキ店へ、でございますか?」
「ああ」
「本日、生菓子を二点お買い求めになったばかりですが」
「明日は焼き菓子にする」
「そういう問題でしょうか」
「では何が問題だ?」
「いえ……問題はございません」
男は前を向き直った。
そして、彼に聞こえないほど小さな声で、
「これは、旦那様が知ったら大騒ぎになりそうですね」
と呟いた。
一方その頃、私は店内で母に捕まっていた。
「ねえ、紗季」
「何」
「篠宮君、いい子ね」
「だから?」
「好きなの?」
「なんでそうなるの!」
「だって、あなたが男子を家に連れてくるなんて、小学校の時に班のみんなで宿題した時以来じゃない」
「店だから! 家に上げてないでしょう!」
「同じ建物じゃない」
「屁理屈!」
母はクリームを絞りながら、私をちらりと見た。
「でも、ちょっと気になってるでしょう?」
「……何が?」
「篠宮君のこと」
「転校したばっかりで何も知らないから、そりゃ気にはなるよ。変な人だし」
「そういう意味じゃなくて」
「どういう意味でもない」
「顔、赤いわよ」
「店暑いから」
昨日も同じ言い訳をした気がする。
私は逃げるように洗い物を始めた。
「ただね」
急に母の声が少し真面目になった。
「何?」
「あの子、たぶん普通の家の子じゃないわよ」
思わず振り返る。
「お母さんもそう思った?」
「あなたも?」
「だって変なんだもん。学校のこと全然知らないくせに、英語とか数学とか妙にすごいし、海外に何か国も住んでたとか言うし、毎日迎えが来るし、お財布には一万円札ばっかりだし」
「そういうこともあるけど、それよりね」
母は少し考えながら、ショーケースのガラスを布で拭いた。
「人に何かしてもらうことに慣れてる子と、誰かが全部してくれる生活をしてきた子って、似てるようで違うの。篠宮君は後者に見えた」
「どう違うの?」
「前者は偉そうになることが多いでしょう。でもあの子は、何かしてもらうたびにどう返したらいいかわからなくて困ってる感じがする。たぶん今まで、欲しいものを自分で選んだり、お金を払ったり、誰かに『ありがとう』って言って終わりにしたりする生活を、あんまりしてこなかったんじゃないかな」
私は黙った。
昨日、篠宮君が言っていた。
人に何かをしてもらうことに慣れていない。
今日も言っていた。
ケーキ屋で自分で選んだことがほとんどない。
「まあ、私の勘だけどね」
母は急にいつもの調子へ戻った。
「それはそれとして、イケメンではないけど背は高いし礼儀正しいし、将来化ける可能性はあると思う」
「最後の一言で全部台無し!」
「母としては娘の将来も心配なのよ」
「十七歳の娘の結婚相手探さないで!」
私は呆れながら水を出した。
けれど、その夜。
自分の部屋でスマートフォンを触っている時も、母の言葉が何度も頭へ浮かんだ。
普通の家の子じゃない。
確かに、そうなのかもしれない。
ただ、その時の私はまだ想像すらしていなかった。
母の勘が当たっているどころか、篠宮君が「少し裕福な家の子」などという範囲には到底収まらないことを。
そして、その夜十一時過ぎ。
世界的企業グループ・九条ホールディングスの本邸では、学校から戻った後継者が、小さな洋菓子店で買ったショートケーキを一人で食べていた。
「……美味しい」
部屋に誰もいないのに、声が出た。
クリームは、彼が普段食べている一流ホテルの菓子ほど複雑ではない。
スポンジも、特別珍しい材料が使われているわけではない。
それなのに、妙に美味しい。
昼間、高梨が言っていた言葉を思い出す。
――店の味を知りたいなら、それが一番いいと思う。
蓮は二口目を食べた。
それから、ガトーショコラへ視線を向けた。
高梨が一番好きだと言ったケーキ。
フォークを入れようとして、なぜか一度手が止まる。
彼女が好きな味。
そう思っただけで、さっきまでと少し違って見えた。
「……俺は何をしてるんだ」
自分でもわからなかった。
ただ、明日になればまた会える。
そのことを考えると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
その感情の名前を、九条蓮司はまだ知らない。
けれど翌週。
高梨紗季が別の男子から笑いながらジュースを受け取る姿を目にした瞬間、彼は嫌でも知ることになる。
自分がもう、彼女をただの「親切な隣の席の女子」とは思えなくなっていることを。
第76話 「このタルト、私が考えたんです」初めて店頭に並んだ新商品を、御曹司が誰より先に一個だけ買いに来ました 新商品の名前が決まらないまま迎えた火曜日の夜、私はソレイユ二階の食卓にノートと試作品の写真を広げ、もう一時間近く同じ言葉を眺めていた。「焼き林檎のごほうびタルト」 口に出してみる。 悪くない気はする。 けれど、何度も見ているうちに、だんだん自信がなくなってくる。「秋色りんごのタルト」 普通すぎる。「香ばし林檎タルト」 何となく商品名というより、説明文みたいだ。「午後の焼き林檎タルト」 今度は少し気取りすぎている。「……名前って、こんなに難しいの?」 誰に言うでもなく呟いたところで、階下から上がってきた母が冷蔵庫を開けながら言った。「難しいわよ。だから新商品出すたびに毎回揉めるの」「お母さんたちも?」「当たり前でしょう。浩二なんて去年、栗のケーキに『栗のやつ』でいいって本気で言ったのよ」「叔父さんらしい」「私が却下した」「それは正しい」 母は麦茶をグラスへ注ぎ、私の向かいへ座った。「まだ『ごほうび』で迷ってるの?」「うん。嫌いじゃないんだけど、ちょっと押しつけがましいかなって」「どういう意味?」「買った人に『これは自分へのごほうびです』って、店が決めちゃう感じがする」「紗季にしては細かいこと気にするわね」「商品考えると、急に全部気になる」「それが自分で考えるってことじゃない?」「楽しいけど面倒」「仕事なんて大体そうよ」
第75話 「売れる値段じゃなくて、私が売りたい値段を先に聞いて」御曹司にケーキ屋の新商品を相談したら、経営会議になりかけました 三者面談が一段落した翌週、私の進路について考えるきっかけは、学校ではなくソレイユの厨房から降ってきた。「紗季、これ食ってみろ」 土曜日の午前十時過ぎ、焼き上がったばかりの菓子を叔父さんが私の前へ差し出した。「何これ?」「見りゃわかるだろ」「見た目はタルトだけど、何の?」「だから食え」「説明する気ないじゃん」 私はエプロン姿のまま、小さく切られた試作品をフォークで一口食べた。 表面は薄くキャラメリゼされ、その下には少し酸味の残る林檎、さらにその下には香ばしいアーモンドクリームが入っている。「……美味しい」「それだけか」「急に商品会議みたいに言わないでよ」「試食頼んでんだから感想くらい言え」「林檎の酸味ちゃんと残ってる。あと、上が甘いから中まで甘すぎないの好き。タルト生地も前より薄い?」 叔父さんが少しだけ満足そうに頷く。「三ミリ薄くした」「三ミリでそんな変わる?」「変わるわ。菓子なめんな」「なめてないよ」 厨房の奥から母も出てきた。「どう?」「かなり好き」「あら、蓮君の口癖うつってる」「最近みんなそこ言う!」 母は笑いながら、もう一皿持ってくる。「こっちは?」「まだあるの?」「こっちはシナモン少し強め」 二種類を食べ比べる。「私は最初のほう」「理
第74話 「三年生から九条蓮司として通います」三者面談で御曹司が母親の前でも、自分の進路を自分の言葉で決めました 相沢君のサッカーの試合を見に行った翌週、教室の後ろに新しい予定表が貼り出された。 十一月三者面談。 生徒一人につき二十分。 三年次の類型選択と進路希望を中心に、本人、保護者、担任の三人で話をするらしい。「二十分って短くない?」 予定表を見ながら美咲が言うと、佐伯先生は教卓からこちらを見た。「予定通り二十分で終わる家庭ばかりなら、私も楽なんだけどな」「延びるんですか?」「去年、親子喧嘩が始まって五十分使った家がある」「怖っ」「だからお前ら、できれば家で話すことは家で話してから来てくれ。『お母さん、私その大学行かないって言ったでしょ』『そんな話聞いてません』を面談室で始めるな」 教室に笑いが起きた。「先生、経験積んでますね」 相沢君が言う。「お前らより長く高校生を見てるからな。それから篠宮」「はい」 後ろの席から返事がする。「お前は面談前に一度、放課後残れ」 教室の何人かが振り返った。 私は何となく理由を察した。「何で篠宮だけ?」 相沢君が素直に聞く。「事情がある」「進路?」「それも含めてだ」 佐伯先生はそれ以上説明しなかった。 文化祭の時に「篠宮蓮が本名ではない」ことまではクラス全員へ知られているので、誰かが特別扱いだと騒ぐこともなかった。 ただ、本人は少し硬い顔をしている。 ホームルームが終わると、いつものように私の席へ来た。「高梨
第73話 「高梨が相沢の名前を呼んで応援してる」御曹司、友達の試合で初めて彼女への嫉妬と友情を同時に抱えました 待ち受けの写真を相沢君に見られた事件から二日後、今度はその相沢君本人が、昼休みに妙に落ち着かない顔で私たちのところへやってきた。 普段ならパンを片手に「篠宮、数学のプリント見せて」とか、「高梨、今日店に余ったケーキない?」とか、本人なりには遠慮しているつもりなのだろうけれど、だいたい遠慮のないことを言ってくるのに、今日は私たちの机の前まで来てからも、なぜかすぐには口を開かない。「相沢君、どうしたの?」 私が聞くと、相沢君は後頭部を軽く掻いた。「今週の日曜、暇?」「日曜日?」「うん。午後なんだけど」 横にいた美咲がすぐ顔を上げる。「何、デートのお誘い?」「違うわ!」 相沢君の声が大きくなり、周囲の何人かがこちらを見る。「美咲、そういう冗談やめろ。篠宮がいるところで言うなよ」「何で篠宮君がいると駄目なの?」「何でって彼氏だろ」「俺は別に」 篠宮君が口を開く。「高梨が相沢と二人で出かけたいなら、まず理由を聞く」「篠宮君」 私は横を見る。「少しは嫉妬しないの?」「すると思う」「するんだ」「かなり」「そこは正直なんだね」「でも嫉妬したからって、行くなとは言わない」 相沢君が何とも言えない顔になった。「何で俺、誘いの内容言う前から二人の恋愛教育見せられてんの?」「相沢君が変な間を作るからでしょう」「俺のせい?」「で、何なの?」
第72話 「篠宮、その待ち受け高梨じゃん」御曹司が隠していた恋人写真を、クラスメイトに見られました 篠宮君と公園で撮った写真が彼のスマートフォンのホーム画面になってから、私は翌朝の教室へ入る前に一つだけ念を押していた。「学校では、机の上に画面を出したまま置かないでね」「うん」「誰かにスマホ貸す時も気をつけて」「貸さないと思う」「絶対じゃないでしょう。写真撮ってって頼まれることもあるし、調べ物で画面見せることもあるし」「その時は一回ホームへ戻らないようにする」「そこまで作戦立てなくてもいいけど、とにかく私が恥ずかしいから」「わかった」「本当に?」「かなり気をつける」 篠宮君は真面目に頷いた。 私はそれで安心した。 付き合っていること自体は、もうクラスのみんなが知っている。 だから、私たちが二人で出かけていることを知られたって、別に問題はない。 手をつないだことも、たぶん何人かは想像しているだろう。 それでも「恋人同士で撮った写真を彼氏が待ち受けにしている」となると、私の中では明らかに一段階恥ずかしさが上がる。 篠宮君本人は、その違いが最初よくわかっていなかった。「付き合ってるって知ってるなら、写真見られても同じじゃない?」「全然違うよ」「何が?」「説明しろって言われると難しいけど」「じゃあ、秘密?」「秘密というより、見せたくないもの」「同じじゃない?」「違う」「難しい」 昨日だけで、このやり取りを二回した。 最終的には、「高梨が見せたくないなら、俺も見せない」で納得して
第71話 「この写真、待ち受けにしてもいい?」冴えない転校生と初めて“恋人として”二人だけの写真を撮りました 九条家で夕食を食べた翌週の月曜日、教室へ入った私は、自分の席に鞄を置くより先に、こちらへ歩いてくる篠宮君へ気づいた。 席替えをしてから毎朝のように続いている光景なので、もう驚きもしない。「おはよう、高梨」「おはよう。今日は自分の席に一回座った?」「座った」「本当に?」「鞄置いた」「それを座ったとは言わないよ」「でも一回戻った」「戻ってないじゃん」 私が笑うと、篠宮君も少し笑った。 以前なら、こういうどうでもいい会話を朝からするなんて考えられなかった。 転校してきたばかりの頃は、声をかければ必要最低限の返事しかしなかった人なのに、今は「鞄を置いたから自分の席に戻ったことになるか」という、どうでもよすぎる主張までしてくる。「それで?」「何が?」「朝から何か言いたそうな顔してる」「わかる?」「最近かなり」 篠宮君は一度だけ周囲を見た。 まだ登校している生徒は半分くらいで、教室はそれなりに騒がしい。「昨日の写真」「写真?」「クラスで撮ったやつ」「ああ」 正式なクラス写真とは別に、莉奈がスマートフォンで撮ってくれた集合写真だ。 私と篠宮君が偶然隣に並び、相沢君が前で半分変な顔をしている、かなり自然な一枚。「どうしたの?」「昨日、家で見てた」「うん」「それで」 篠宮君が少し言いにくそうにする。







